ときどき自分の出身地や住んでいるところを「何もないところ」という方がいらっしゃいます。その人にとってみれば、きっとぼくの出身地の山形は、本当に何もないところなのかもしれません。
確かにコンビニは5キロ離れたところにありますし、地元にマクドナルドができたときは、びっくりしました。ミスタードーナツができたときも信じられませんでした。
その人にとってみれば、きっとそのようなものがあるところが「何かあるところ」なのかもしれません。
田舎には田んぼがあります。田んぼは、日本人のみんなが食べるお米ができます。昔の人は、その残った藁(わら)でお米を入れる俵を作りました。草履も、笠も作りました。
ぼくは子どもの頃、田んぼのあぜ道にある砂利で小さな街を作って遊びました。溝を掘ってそこに水を流し、川に見立てて遊びました。雑草を友だちと引っぱりあってどちらが早く切れるかゲームをしたり、シロツメクサで冠を作ったりしました。木の枝で弓矢を作って遊びました。田舎には何でもあるのです。
東京に上京してきたとき、一番違和感を感じたのは、地面が全部アスファルトに覆われていたことです。これでは田んぼや畑にすることはできません。雑草も生えてきません。砂利で遊ぶこともできません。当時のぼくにとってみれば東京こそ「何もないところ」でした。
テレビには、お金持ちの豪邸を訪問し豪華なブランド品や高級車を見る映像や、信じられないくらい豪華な料理を食べきれないほど食べる映像など、普通では絶対ありえない奇妙でおかしな映像が普通のように流れてきます。
FacebookやインスタグラムなどのSNSにも、みんなの自慢ばかりが流れてきます。
それを見た人の中には「自分には何もない。だから自分は不幸だ。」と思う人もいるかもしれません。人にあって自分にはないものがあるのは当たり前なのに、自分が持っていないものばかりに目を向けてしまうのです。
自分にあるものに目を向けず、自分にないものばかりに目を向けていては、自分のそばにある幸せやチャンスに気づくことは難しいかもしれません。
無いものに目を向けるのではなく、あるものに目を向けて
無いものに目を向けるのではなく、自分にあるものに目を向けてみれば、目の前には、実に多くの幸せやチャンスがあることに気づきます。
体がある、考えることができる頭がある、前に進める足がある。周りには自分に手を差し伸べていくれる人もいます。
電話がある、FAXがある、パソコンがある。電話を悪く使えばオレオレ詐欺、良く使えば、カスタマーサポートや相談ダイヤルだってできます。
自分にしかないものもあります。自分にとっての幸せやチャンスがあります。気づいたら、行動あるのみです。
大人が子どもに「ここは何もないところ」なんてことは言ってはいけないと思います。砂漠にだって砂は売るほどあります。「何もないところ」などこの地球上にはないと思います。
幸せやチャンスをなくしてしまうのは、人の心。幸せやチャンスを見つけるのも人の心だと思っています。
幸せやチャンスは、早くあなたが自分たちを見つけてくれることを今この瞬間も待っています。