2.18.2015

何を“したか”ではなく、何を“しなかったか”

ぼくは、山形県南陽市という周りには田んぼしかない田舎で育ちました。昔はサッカー選手やヒーローになることが夢だった同級生も今では、農業か土木か大工かというくらいほとんどみんなガテン系の仕事に就いています。今も地元に住んでいる同級生は、地元が大好きで山形から出ようなんてことは考えません。

立派な職に就き、地元で頑張っている同級生のことを悪く言うつもりは全くないのですが、最近、須貝家の教育と同級生の家の教育が、何か少し違ったのではないかと感じるようになってきました。

そんなとき、マララさんの父の講演を聞いて納得しました。
下記は抜粋です。

“マララをどう育てたのか人々は私に聞いてくる。「どうしたらあんなに勇敢で堂々とした子になるのか」と。私はこう答える。「私が何を“したか”ではなく、何を“しなかったか”なんです。私は娘の翼を切らなかった。それだけです。」”
TEDトーク「私の娘 マララ」より

街角では、親が子に「危ないからダメ!うるさいから止めろ!そっちに行くな!黙れ!大人しくしてろ!」と子どもの好奇心をいとも簡単に消してしまう言葉が飛び交っています。そう言われて育つ子は、大人しくしていればいい、親の言うことを聞いていればいい、ただ静かにしていればいい、という子に育ちそうです。

ぼくが親にしてもらったことは、マララさんの父ジアウディン・ユスフザイさんが言うように、親が自分に何を“したか”ではなく、何を“しなかったか”なのかもしれないと思いました。
してもらったことはたくさんあります。でも親は私の、か弱い翼を切らなかった。そのことに尽きるような気がします。

親や大人に何かにつけ否定され止められ育った子は、「それは無理だよ。できないよ。そんな才能ないじゃん。できっこないよ。」と大人になってもその価値観を自分や人に押し付けるような気がします。

世の中には“できない”“しない”理由を持っている人は、本当にたくさんいます。
「こうしたらどうですか?」と言っても「〇〇だからできない。それは無理。」と即座に回答する人がたくさんいます。

そうではなく、それをどうすればできるか一緒になって考え「きっとこうすればできるかもね。こういう案はどうだろう。」という解決案を言えるだけでも全く違うと思います。

その人ができないと思い、無理と思えばそれは絶対無理だと思います。でもその人がきっとできると思い、どうすればできるか考え、努力することができれば、大概のことは叶うと思います(※先進国において)。

否定せず、解決案を。そしてみんなが、自分や他人の可能性の翼を切ることのないようにするだけでも世の中がちょっと変わってきそうです。