1980年12月、山形県の法師柳*に須貝家の三男として生まれる。
*村にある柳の下でお坊さんが念仏を唱えたことから法師柳という地名になる。今も我が家の隣のお寺にその柳の木がある。
「悠」という名前の由来は、父が尊敬する詩人で作詞家の阿久悠さんから。
父は、百姓音楽家の須貝智郎。エンターテイナーの父を見て育つ。
母は、市役所職員で経済的に父を支える。
昔ながらの農家に生まれ、仏教と神道の教えに強く影響を受ける。
「お米一粒に神様一人」という神道の精神をたたき込まれる。
今でも神道の八百万の神の思想「モノには全て神が宿る」という考え方が好き。
保育園のとき、折り鶴を折れない不器用な自分が悔しく、泣きながら夜遅くまで練習する。
練習を重ね、1cm角の紙で折り鶴が折れるようになる。この頃からものづくりに対する情熱が芽生える。
小学生のとき、声がでかいだけの理由で、応援団の組頭をする。
中学生のとき、文化祭実行委員長をし、父に講演依頼し、みんなに喜んでもらう。
高校生のとき、学校に行きたくなかったので、公欠で休めるという理由で弁論大会に出場し、県で優秀賞をもらう。
兄の奨めと、入学試験が自分が得意な工作だった多摩美術大学を受け1浪の末、入学。
ちなみに予備校時代に「新しい乗り物」の課題を出され、
みんながお年寄り用の乗り物や、かっこいいスポーツカーを作る中、
ぼくは植木鉢用の乗り物を作り、講師に絶大な評価をもらい、発明家精神が芽吹く。
大学生のとき、ものづくりは好きだったが、夢は発見できず。
映像なら、なんでもできるのではないかと映像の世界を目指す。
映像制作会社を何十社と受けるが全く受からず、1年半、池袋のジュンク堂書店で働きながら就職浪人する。
このとき、自分はこの世界に必要とされていないのではないかと、すごく悩み落ち込む。
フリーターのとき、友人に「社会不適合者」と呼ばれ、信じる。
そのときたくさんの本を読んだり、テレビをみたり、考えたりしていて
「そもそもこの世に社会不適合者なんていない、だれもがこの社会をよくする使命があるんだ」と気づく。
なんとか映像制作会社に入社する。1ヶ月に数回しか家に帰ることができない忙しい生活をする。ボロぞうきんのような扱いを受ける。約2年働いたが、色々あり命の危険を感じたので、退社し、友人のお父さんが営むデザイン会社に入社する。デザイン業務よりは営業が向いていたのか、営業業務をまかされる。会社の業績アップをすべく、展示会で飛び込み営業を何千社と行い、お仕事をたくさん頂く。この頃、満員の通勤電車の中でストレス解消目的で発明ノートを描き始める。
その中の「会社のみんなをメガネに例えるとどんなカタチか」という企画が同僚の目に留まる。その企画を会社のみんなも喜んでくれ、実際にそのメガネを厚紙で作り、みんなで記念写真を撮影をする。
その出来事がきっかけで、社会人生活で封印していた自分の創作欲が爆発。
約3年、営業業務をしたが、企画やデザイン業務をしてみたくなり、
ホビーメーカーのインハウスデザイナーに転職。
夢を抱いて入社するが、その夢の企画は一切採用されず、悶々とした3年間を過ごす。
会社でできないなら、自分でやるしかないと、
初の自社製品であり、発明ノートの企画の一つである「ひげ付箋」を作る。
「ひげ付箋」を作ったはいいが4,000個の在庫の量に唖然とする。
出会った方の多大なるご支援とご協力、過去に培った営業力、ちょっとしたヒゲブームのおかげでなんとか初回生産分がなくなる。
そして、その利益で新しいプロダクトを徐々に増やしていき、
2013年2月に初めて大きな合同展示会ギフトショーに出展する。
たくさんの方に支えられ、多くの注文とデザイン業務の依頼を頂く。
バブル崩壊、不景気、リストラ、社会の閉塞感、環境破壊、就職難、非正規雇用の増加、格差社会、たくさんのネガティブな言葉を浴びて育ってきたが、そのネガティブなものを打開すべく、クライアント様の企画デザイン業務と自社の商品販売で生計を立てながら、ポジティブに日夜奮闘しています。
夢は「社会がもっと夢と想像力で溢れる」こと。